【概 要】−静岡県の江戸時代には堀江藩、小島藩、沼津藩、田中藩、浜松藩、 相良藩、横須賀藩、掛川藩、府中藩が存在しましたが、江戸幕府が滅ぶと徳川慶喜が駿河に入封した為、小島藩、沼津藩、田中藩、浜松藩、相良藩、横須賀藩、掛川藩が移封となっています。その為は移封になった城下町に残る武家屋敷の遺構は非常に少なく、市街化も進み雰囲気を感じる町並みも少なく感じます。その分、郊外にある在郷武士の邸宅が非常に存在感があり、江川家住宅(中世地元豪族、江戸時代後期は天領26万石の代官職を歴任)、黒田家住宅(代官職)、大鐘家住宅(旧旗本の在郷武士)が国指定重要文化財に指定され異彩を放っています。
【藤枝市】−田中城は天文6年(1537)、駿河今川氏が家臣である一色信茂に命じて築かせました。桶狭間の戦い後に今川家が衰退すると武田家の侵攻が始まり、永禄13年(1570)には田中城を掌握します。当時、当地域は武田家と徳川家の境界に近かった事から田中城は駿河侵攻の拠点として重要視され、信玄は重臣の馬場信春に命じて整備拡張が行われました。その後も武田家の重臣が城主を歴任しましたが天正3年(1575)、長篠の戦い後は徳川家から度々急襲され天正10年(1582)に遂に田中城は落城し徳川方から管理されました。天正18年(1590)、徳川家康が関東に移封になると田中城は豊臣家の重臣で駿府城(静岡県静岡市)の城主、中村一氏の管轄下に入りますが、秀吉が死去すると一氏は豊臣家を見限り慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として行動しています。跡を継いだ一忠は幼少ながら伯耆国の国持大名となり米子城(鳥取県米子市)17万5千石が与えられます。代わって田中城には、酒井忠利が入封し田中藩を立藩、藩庁、藩主居館が置かれさらなる拡張が行われます。その後は、松平家(桜井家),水野家、松平家(藤井家)、北条家、西尾家、酒井家(雅楽頭家)、土屋家、太田家、内藤家、土岐家、本多家(正重系)が城主を歴任して明治維新を迎えています。田中城は同心円状に縄張りされた珍しい城で、武家屋敷は野ニノ堀と四ノ堀の間と四ノ堀の外東側に配されていました。現在は同心円状の敷地割は残されているものの、目立った武家屋敷の遺構は見られませんでした。
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