【概 要】−山形県の江戸時代は庄内地方を庄内藩とその支藩である松山藩が、最上地方を新庄藩、村山地方を山形藩、上山藩、天童藩、長瀞藩、置賜地方を米沢藩が治めていました。各城下町、陣屋町とも市街化や宅地化が進み武家地としての雰囲気はかなり失われています。唯一多くの武家屋敷を残しているのが上山で4軒の武家屋敷が市の文化財に指定されて保存されています。又、珍しい武家町として米沢郊外にある芳泉町、垣町、通町があります。
米沢藩の藩主上杉家は会津若松を本拠とする120万石の大大名でしたが関が原の合戦で西軍に付いた為、米沢30万石に減封されました。しかし、希望する家臣達をそのまま米沢に迎え入れた為、城下町では収まりきれず、下級武士達は郊外に屋敷を構え半士半農の生活をしたそうです。特に米沢市芳泉町では茅葺の武家屋敷やウコギの生垣などが残り当時の武家町の雰囲気を色濃く残しています。
【上山市】−上山市は上山城の城下町として発展した町です。上山城には上山藩の藩庁、藩主居館が置かれ、二ノ丸に上級武家屋敷、城の西方と北方に中級、下級武家屋敷が配されました。南東方には羽州街道が引き込まれ、街道沿いは町人町として町割されています。現在、武家町の雰囲気が残っているが上山城の北方に位置する仲丁通り(武家屋敷通り)で向って左から森本家住宅(上山市指定文化財)、三輪家住宅(上山市指定文化財)、山田家住宅(上山市指定文化財)、旧曽我部家住宅(上山市指定文化財)の4軒の武家屋敷が並んでいます。主屋は概ね、木造平屋建、寄棟、茅葺、曲屋、華美な装飾は少ないものの庭園は個別に愛称を付けるなど家主の思い入れの強い手の込んだ作庭が成されています。
【米沢市】−米沢市は米沢城の城下町として発展した町です。米沢城には米沢藩の藩庁、藩主居館が置かれ、主に二之丸には重臣、三之丸に上級、中級、下級武士の武家屋敷が配されました。江戸時代当初は三之丸の東側には侍組(上級武士)、南側には馬廻組(中級武士)、西側には五十騎組(上杉景勝の旗本、中級武士)、北側は与板組(直江兼続の旗本、中級武士)が居住し、街道沿いの城下入口付近に下級武士が居住しました。米沢藩初代藩主上杉景勝は豊臣政権下で五大老の一角を占め、会津領120万石を領していた為、膨大な家臣を抱えていましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与し敗北した事を受け米沢藩30万石に減封となりました。しかし、家臣の多くを切り捨てせず米沢に引き連れた為、一般の家臣も概ね1/4の石高に減じられました。
米沢城の城下町の範囲は限られていた為、原方衆と呼ばれる下級武士は城下内に居住する事が出来ず、城下周辺の要地しある程度の戸数が纏まって町が形成され独特な領土経営が成されました(米沢市:南原石垣町・南原猪苗代町・南原笹野町・南原新町・南原横堀町・芳泉町・山上通町・山上裏町・花沢小国町・花沢信濃町・花沢中町・花沢片町・花沢窪町・花沢上野町・花沢鉄砲町・花沢弓町などが原方衆の武家屋敷で形成された武家町とされます)。原方衆は藩から支給される給金では生活出来なかった為、半士半農の生活が行われ、その武家屋敷も独特な仕様となっています。正面の垣根は「ウコギ」と呼ばれる植物で、食用や薬用で食する事が出来ると同時にトゲは外敵の侵入を妨げる事から採用され、特に米沢藩の中興の祖と呼ばれた上杉治憲(鷹山)が奨励したと伝えられています。屋敷は間口が狭く、奥行が長い町屋のような敷地割りで主屋の背後は畑として利用し半農的な生活が行われていました。
武家屋敷は概ね、木造平屋建、寄棟、茅葺、内部は「上段(床の間、押入れ)」、「二の間」、「割住い」、「茶の間」、「膳部」、「部屋」、「台所」、「倉」の間取りとなっていました。「割住い」は普段は寝室として利用し、そこに敷かれた畳は当主が切腹する際に利用されると決められていたそうです。米沢市街は市街化や建替えなどで目立った武家屋敷の遺構は見られませんが、原方衆の町は郊外にあり開発されなかった事もあり当時の雰囲気が残されています。
米沢市芳泉町:付近マップ(古地図風)
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