【概 要】−秋田県の江戸時代は大部分を久保田藩、由利地方を、亀田藩、本荘藩、矢島藩、 鹿角地方を南部藩が占めていました。現在、数多くの武家屋敷が存在し、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている角館町(仙北市)は久保田藩内の所謂、所預と称する支配体制で、藩主である佐竹本家の一族である佐竹北家が治めていました。当時は一国一城令の執行により角館には城が認められなかった為、一般的にいう城下町とは異なりますが、角館所預として佐竹北家の家臣団と久保田藩から派遣された武士団が角館に居を構えていた為、現在でもその名残が随所に見受けられます。横手城と大館城は支城が認められていた為、城下町ですが大館は武家町の市街化と宅地化が進みあまり名残が見られません。横手は藩政時代の建物は少ないもののその後の子孫達の邸宅が残り、さらに修景が施された事で角館に継いで雰囲気が残されています。刈和野は支城や所預では無い町でしたが、交通の要衝だった事から武士団が配され、現在でも旧武家屋敷の生垣が続く町並みが残っています。同じような生垣が続く町並みとしては鹿角市の毛馬内地区で、ここは南部藩の要害屋敷が置かれた場所で、所預と同じく城下町ではありませんが、南部家の一族や有力家臣が配され、その家臣団により武家町が形成されました。武家屋敷の遺構としては県内唯一国指定文化財に指定されている黒沢家住宅があります。黒沢家は久保田藩では上級武士に当たる家柄で、長屋門をはじめ、主屋や蔵など当時の屋敷内の主要建物が残され貴重な存在です。
【仙北市角館町】−角館は古くは周辺を支配した戸沢氏の居城である 角館城の城下町として発展した町です。戸沢氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍として行動したものの、積極的ではなく、最上家の虚言などから慶長7年(1602)に常陸多賀郡へ移封となり、代って佐竹氏が秋田に入り久保田藩を立藩し角館は久保田藩領に組み込まれました。角館城には藩主佐竹義宣の実弟で旧会津黒川城の城主蘆名義勝が1万5千が配され半独立の行政が行われました。慶長20年(1615)、一国一城令が発令されると角館城は廃城となり麓に陣屋構えの居館を設け、その際、戸沢氏以来の城下町も水害で度々大きな被害を出していたいた事から廃して現在地に改めて町割が行われました。承応2年(1653)に蘆名家が断絶すると、明暦2年(1656)、藩主佐竹氏の一族である佐竹北家の当主佐竹義隣が配され、以後、佐竹北家が領主を歴任して明治維新を迎えています。久保田藩は21万石ながら藩主佐竹家が源氏の後裔と格式が高く、領地が広かった事から本城である久保田城の他、横手城、大館城と支城が2城認められ、他藩では例を見ない3城体制で、その他にも一族や有力家臣を「所預」と称して要地に配しました。角館も「所預」の1つで佐竹北家には半独立の行政権が認められいましたが、角館の地が盛岡藩領に隣接する戦略的な拠点だった事から、 佐竹宗家の家臣団も派遣されていました。その為、佐竹北家の陣屋に近い武家町には北家直臣(蘆名氏の旧臣含む)、商家町を挟んで、その外側に設けられた武家町には佐竹宗家の直臣が配されていました。戊辰戦争の際は逸早く奥羽越列藩同盟を脱退した久保田藩は東北諸藩から徹底的に攻め込まれ久保田城の城下付近まで侵入を許しましたが、角館市街地には侵入を許さなかった事から戦禍を免れ結果的に多くの武家屋敷が残される事になりました。現在でも石黒家(仙北市指定史跡)、青柳家(秋田県指定史跡)、松本家(秋田県指定有形文化財)、岩橋家(秋田県指定史跡)、河原田家(仙北市指定史跡)、小田野家(仙北市指定史跡)などの武家屋敷が残され、「角館町角館伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。
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