【概 要】−栃木県の江戸時代は宇都宮藩(宇都宮市)、大田原藩(大田原市)、黒羽藩(大田原市黒羽町)、烏山藩(那須烏山市)、高徳藩(栃木県日光市高徳)、壬生藩(壬生町)、吹上藩(栃木市)、佐野藩(佐野市)、足利藩(足利市)、喜連川藩(さくら市喜連川)によって支配されました。宇都宮藩だけが10万石前後で、その他の藩は小藩だった為、元々城下町の規模が小さい町が多かったのですが、東京に近い事もあり市街化が急速に進み武家屋敷としての遺構は非常に少ない地域となっています。宇都宮にしても戊辰戦争の主戦場の1つでもあり多くの建物が被害を被っており現在は雰囲気も感じられません。町並みとしては黒羽城の大手筋が武家町の雰囲気が感じられる一角があり喜連川には立派な門構えや板塀、生垣、水路(掘?)などが残され良好な町並みとなっています。ちなみに喜連川藩は1万石にも満たなかった為、本来、藩としては認められない存在でしたが藩主が足利将軍家の血筋だった為、格式は10万石とされました。
【喜連川町】−喜連川町は喜連川陣屋の陣屋町、奥州街道の宿場町として発展した町です。喜連川藩主である足利氏(喜連川氏)は室町幕府初代将軍足利尊氏の次男足利基氏の後裔で関東管領を担っていましたが、その後、将軍家とは対立関係となり永享11年(1439)、足利持氏は「永享の乱」で第6代将軍足利義教に粛清され、跡を継いだ成氏は康正元年(1455)に古河(茨城県古河市)に本拠を移し古河公方と呼ばれるようになります。
戦国時代に入ると小田原北条氏の台頭により、滅亡寸前まで追い込まれ、さらに、男子の後継ぎがいなかった事から娘の足利氏姫が当主となり、親戚筋の小弓公方国朝を迎え入れる事で名跡を守り喜連川領3千5百石が豊臣秀吉から安堵されました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは目立った功績は無かったものの1千石が加増され、さらに、足利家の後裔という名家だった事から10万石の格式を得ています。
現在も武家町の雰囲気が残され、板塀や生垣、門、水路、庭の大木などの武家屋敷の遺構が随所に見られます。
【旧黒羽町】−旧黒羽町は黒羽城の城下町として発展した町です。黒羽城は天正4年(1576)に大関高増によって築かれました。大関氏は形式的には那須家の家臣という立場でしたが、天正18年(1590)の小田原の役で那須家の命に逆らい参陣を果たした事で、那須家は一時改易となり、大関氏は独立を果たしました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも東軍として行動した事で1万8千石が安堵され黒羽藩を立藩しました。黒羽城は山城だった為、大手筋に家臣屋敷を設け、麓に商人町が町割され、現在も武家町では屋敷割や武家門、水路跡などが残され往時の雰囲気が感じられます。
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