【概 要】−石川県の江戸時代は大部分が加賀藩、一部は加賀藩の支藩である大聖寺藩の支配領域でした。城下町は金沢(金沢城)と支城が認められた小松(小松城)、陣屋町は大聖寺藩の藩庁が置かれた大聖寺です。武家町として現在でも色濃く残っているのが金沢市の長町で、細い路地の両側には土壁が連なり風情を感じさせます。長町は中級武士が住まう町ですが、格式の高い長屋門を有する家屋が点在し、道筋も金沢城の防衛を意識して、鉤型やT字路といった複雑な町割りとなっています。兼六園の裏手あたりは家老屋敷が配された地域で武家屋敷こそありませんが加賀八家に数えられた奥村家の長塀が残され当時の雰囲気が残されています。
【金沢城】−金沢市は金沢城の城下町として発展した町です。金沢城は一向一揆の 拠点である金沢御坊を前身として天正8年(1580)に柴田勝家の与力大名である佐久間盛政によって築城されました。天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が倒れると明智光秀を破った豊臣秀吉(羽柴秀吉)と織田家筆頭家老である柴田勝家の対立が激化し、天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、北之庄城(福井県福井市)で自刃します。佐久間盛政も賤ヶ岳の戦いで勝家方として参陣し初戦に勝利するなど活躍しましたが、同じ勝家の与力大名だった前田利家の裏切りにより戦場で孤立した事で大敗を喫し、金沢城に帰城する途中に捕縛され斬首されていまし。戦後、盛政の旧領は勝家を裏切った利家に与えられ、天正15年(1587)に前田家の客将だった高山右近により大規模改修と拡張が行われ金沢城の基礎部分が確立しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、利家の遺言を破り、豊臣家を見限った前田利長が東軍方として行動した事で100万石が安堵され加賀藩を立藩、金沢城には藩庁、藩主居館が置かれました。加賀藩は徳川将軍家に次ぐ大藩だった為、 数多くの家臣を擁し、金沢城下は全国有数の人口を数える大都市として発展しました。金沢城は小立野台地の先端に位置し、南方の浅野川、北方の犀川を天然の堀に見立て、通常の内堀、外堀の他、内惣構堀、外惣構堀が設け、さらに卯辰山と寺町台地、小立野台地の麓に寺町と足軽を配している防衛ラインとしています。武家町は一般的な城下町と同様に城に近い方から家老屋敷、上級武家屋敷、中級武家屋敷、下級武家屋敷と順次配された他、加賀藩は大藩だった為、1万石を超える大身は加賀8家と呼ばれ、その屋敷は城下町の中の要所に配され周囲に家臣屋敷で囲んだ為、小城下町が形成されました。現在、武家町として雰囲気が残されているのが長町周辺で、特徴ある土塀や長屋門などの遺構が随所に見られます。
【加賀市】−加賀市は大聖寺陣屋の陣屋町として発展した町です。大聖寺陣屋は寛永16年(1639)に加賀藩3代藩主前田利常が7万石が与えられ大聖寺藩を立藩し、藩庁、藩主居館を置く為に設けられました。背後の山(錦城山)には大聖寺城が築かれていましたが元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、その後は加賀藩の郡奉行などの地方行政機関が置かれていました。大聖寺藩はその後10万石となったものの、加賀藩の支藩という立場から城主格が認められず、全国的も珍しい高禄での陣屋となりました。大聖寺陣屋は西方が旧大聖寺城、北方が大聖寺川とその支流、南方が「山の下寺院群」と呼ばれる寺町を形成した為、城下町は主に東の方向に町割されました。一般的な城下町とは異なり、町の中心は北陸街道(北国街道)を引き込み商家町とし、商家町を取り囲むように武家町、街道沿いには足軽を配して防衛する計画が成されています。昭和9年(1934)の大火災、昭和23年(1948)の福井震災、近代化による建て替えなどで多くの武家屋敷は失われていますが、「山の下寺院群」周辺は比較的町並みが残され旧月田家住宅は大聖寺藩の下級武家屋敷の遺構とされます。
スポンサーリンク
|