【概 要】−新潟県の江戸時代は村上藩、三日市藩、黒川藩、新発田藩、村松藩、三根山藩、長岡藩、与板藩、椎谷藩、高田藩、糸魚川藩があり城下町、陣屋町として発展しました。しかし、三日市藩、黒川藩、三根山藩、椎谷藩は小藩だった事も明治時代以降は近代的な発展には繋がりませんでした。長岡は新潟県内の有力都市となりましたが、戊辰戦争の主戦場でもあり長岡城をはじめ、城下町も多くが焼失し当時の雰囲気があまり見られません。武家町としての見所が多いは村上と新発田で、村上には国指定文化財になっている旧若林家住宅をはじめ5棟の武家屋敷が残されています。新発田では今では珍しい武家長屋が現存しこれも国指定重要文化財に指定されています。
【村上市】−村上市は村上城の城下町として発展した町です。村上城は戦国時代に当地の国人領主だった本庄時長により築城された山城です。その後、上杉謙信の台頭により本庄氏は上杉家に従った為、慶長3年(1598)に上杉景勝が春日山城(新潟県上越市)から鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると村上の地を離れます。代わって堀秀治の家臣である村上頼勝が入封し村上城を大改修し近代城郭へと整備されました。頼勝は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍として行動した事で領地が安堵され村上藩を立藩、村上城には藩庁、藩主居館が設置され城下町も整備されます。元和4年(1618)跡を継いだ村上忠勝は御家騒動により改易になると蔵王堂城(新潟県長岡市)から堀直寄が入封、村上城と城下町はさらなる整備が行われます。その後は本多家(忠勝系)、松平(越前)家、榊原家、本多家(忠勝系・分家)、松平(大河内)家、間部家、内藤家(信成系)が城主を歴任し明治維新を迎えています。明治4年(1871)に廃藩置県が行われると村上藩は廃藩となり、村上城も廃城となり明治8年(1875)には全ての施設が撤去されます。城下町は概ね村上城から見て北側と西側に計画され、城の麓に設けられた藩庁と藩主居館の廻りには家老級の屋敷、中堀内には上級武家屋敷が配されました。外堀内には下級武家屋敷、さらにその外側の街道沿いには町人町を配し、北西端には寺町を設けて防衛ラインとしています。村上城周辺は比較的に近代的な開発が行われなかった事から武家屋敷の雰囲気が残る町並みが散見されます。
【新発田市】−新発田市は新発田城の城下町として発展した町です。新発田城は鎌倉幕府の御家人である佐々木盛綱の後裔の一族である新発田氏が室町時代に居館として設けたのが始まりとされます。新発田氏は国人領主として周辺に大きな影響力がありましたが上杉謙信が台頭するとその配下となり重臣となります。謙信が死去すると後継者争いが激化し、新発田氏は上杉景勝に与し勝利に貢献しましたが、結果、恩賞が与えられず疎んじられた為、対立関係となります。抗争は周辺の大名や織田信長などの大大名を巻き込み7年間続けられましたが、天正15年(1587)に新発田城が落城し、当主である新発田重家が自刃して終結します。慶長3年(1598)に上杉景勝が越後春日山城から会津領120万石に移封になると、新発田城には溝口秀勝が入封、秀勝は新発田城を大改修、大拡張を行い最終的には3代宣直の代の承応3年(1654)に一応の完成をみています。その後も溝口家が城主を歴任して明治維新を迎えています。明治4年(1871)の廃藩置県により新発田藩は廃藩、新発田城も事実上廃城となり、明治6年(1873)の廃城令により本格的に取り壊されました。本丸と二ノ丸北側は藩主の御殿と庭園、藩の施設などが設けられ、二ノ丸の南側には家老屋敷、三ノ丸には上級武家屋敷、外堀を取り囲むように下級武家屋敷が配されていました。武家町の南側に町人町が町割され大手筋で参勤交代で利用する街道の外側には寺町を配置して防衛ラインとしています。
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