【概 要】−宮城県はほぼ仙台藩に属していましたが、仙台藩は大藩だった為、 本城が置かれた仙台城の他、支城として白石城が認められました。又、一族や有力家臣達には自領とも言える支配権が認められ規模によって要害、所、在所、在郷と称した陣屋構の屋敷が設けられました。宮城県内の要害は高清水、宮沢、佐沼、岩出山、登米、涌谷、不動堂、岩沼、船岡、川崎、角田、金山、平沢、亘理、坂元で、それぞれが屋敷の廻りに家中や武士団を住まわせていました。現在一番武家町の雰囲気を残しているが登米町で数軒の武家屋敷が残る他、門や板塀などが町並みを形成して当時の名残を見せています。又、県内には在郷武士の邸宅も散見出来、中でも江戸時代中期に建てられた松本家住宅は国指定重要文化財に指定されています。
【登米町】−登米町は仙台藩の行政区の1つ登米要害のある町として発展しました。 本来、登米城の城下町と言っても良いのですが、慶長20年(1615)に江戸幕府が一国一城令を発令すると、例外を除いて領内に本城だけが認められ、その他の城は破棄されました。仙台藩は62万石(実石は100万石超)の大藩だった為、本城である仙台城の他、支城として白石城が認められ2城体制となりました。しかし、領地も広く家臣を数多く抱えていた事から「要害制」と呼ばれる他藩では見られない支配体制が敷かれ、仙台藩主伊達家の一族や有力家臣が領内の重要地に配され、半独立的な支配権が与えられました。特に重要な地域に配された領主の居館は「要害」と呼ばれ、堀や土塁を供える事実上の城郭が構えられ、周辺には家臣が居住する武家屋敷、さらに町民を集めた商家町などが町割され小城下町が形成されました。それらの領主は仙台城の城下町にも屋敷を構え、諸大名が江戸に参勤交代すると同じように、 自領と仙台を往復し、仙台城に出仕する事を「参府」又は「上府」、仙台城に留まる事を「定仙」と呼ばれました。登米要害(寺池城)は慶長9年(1604)に関ヶ原の戦いで白石城攻防戦で功のあった伊達家の一門である白石宗直が1万5千石で配され、大坂の陣で再び大功をあげると元和2年(1616)には伊達姓を名乗る事が許され、以後、登米伊達家と呼ばれるようになります。登米伊達家は積極的に新田開発を行い、最終的には2万1千石の大身となっています。登米要害の四周には家中屋敷が配され、その外側に町人町が計画されました。武家町の町割は概ね碁盤の目のようにして要所には食い違いを設けています。現在でも登米要害の南側の武家町が良好に残され、複数の武家屋敷が現存しています。
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